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平安時代(794〜1192)の中頃
貴族社会の政治への移行に伴い、地方の政治は乱れていきました。その顕著な例が平将門の乱(935〜940)です。
乱は下総北部(現在の県西)から板東八カ国にまで広がりましたが、結局、同族常陸平氏の平貞盛に鎮定されます。
この乱を綴った「将門記」には貞盛の弟繁盛の居所と思われる「水守の営所」の名が見られます。
乱の後、貞盛につながる常陸平氏本宗の多気氏は、北条を拠点に勢力を増していきました。
また、各地の荘園ではこれを守る武士団が台頭してきました。そして乱から約250年後、源頼朝が武士の政権、
鎌倉幕府を開くこととなります。
鎌倉時代(1192〜1333)以降の約400年
小田氏が十五代にわたり常陸南部に勢力を もつようになります。小田氏の祖八田知氏は、常陸守護職につき、
小田城を本拠地としました。
建久4年(1193)には旧勢力多気氏を失脚させ、安定した基盤を築きました。
地名に因み小田姓を名乗るようになったのは、四代時氏からです。
また、小田城の近くでは奈良西大寺の高僧忍性が律宗の大寺院三村山清令院極楽寺を整備し、
当時の小田は政治・宗教の一台中心となりました。
室町時代(1338〜1333)
前半に南北朝の争乱期、後半に戦国の乱世を含む、内乱の地代です。南北朝の争乱期、南朝劣勢の中、
南朝の有力武将北畠親房が小田治久を頼り小田に入城したため、小田城は東国における南朝の拠点的存在となりました。
親房が「神皇正統記」を著し始めたのも 小田城でのことです。
しかし、常陸の南朝勢力は衰退、小田城も暦応四年(1342)北朝側に開城しました。
親房はさらに常陸を転戦しますが、結局常陸の南朝側拠点は全滅、親房は吉野へ帰ることとなります。
争乱の後、治久は北朝に帰順し、城と本領を保持することができました。
戦国期の小田氏は、北の佐竹氏、西の結城氏らと争い続けます。しかし永禄12年(1567)1月、氏治のとき、
佐竹義重に本拠小田城まで迫られ、城周辺の村々を残らず焼かれました。かろうじて小田城は守りましたが、
同年10月に再び義重に大攻勢をかけられ、「手這坂の合戦」で城を捨てて敗走、鎌倉時代からの名族小田氏も
とうとう失墜してしまいます。その後、佐竹氏は常陸を制圧しましたが、関が原の合戦に際しての態度を曖昧にしたため、
慶長七年(1602)、徳川家康の命令で出羽へ国替えさせられました。
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