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江戸時代(1603〜1867)
各地に置かれた藩を江戸の幕府が統括する、幕藩体制となります。 「つくば」は、谷田部藩領、
土浦藩領、旗本藩領、幕府領などに分割されました。
各地では検地が行われ年貢の徴収が徹底、人々は士農工商の身分制度や各家を互いに監視し合う
五人組の制度を通じ、統治されました。
この時代には交通が発達し、特に江戸に近い常陸では水戸・筑波・小張・細川などの街道、宿場が次々と
整備され、利根川、小貝川、霞ケ浦を利用した水運も隆盛、物資の交易が盛んに行われました。
安定した世の中で学問も広まり、谷田部藩から洋学の先駆者広瀬周伯、書画の天才広瀬周度、測量、建築、
機器製作などに才能を発揮した飯塚伊賀七らが輩出されています。
江戸時代後半
生活・流通の変化、商品生産の拡大が、米を基礎とした幕府の経済方針と合わなくなり、財政難や農村の困窮を招きました。
このような幕藩体制の動揺に海外からの圧迫が拍車をかけ、ついに各地の尊皇攘夷派が体制改革のための行動をはじめました。
水戸藩の尊皇攘夷派が筑波山に集結、挙兵した天狗党の乱も、このような世情の中で起こった事件です。そして、
慶応3年(1867)の大政奉還により、時代は明治へと移っていきました。
明治新政府のもと、明治2年(1869)
新治郡若森に県庁を置く若森県が設置され、「つくば」のうち土浦藩領、仙台藩領、旧筑波町の大半が同県に属しました。
明治4年(1871)には廃藩置県が実行され、「つくば」は新治県に含まれました。さらに。明治8年(1875)には茨城県、
新治県、印旛県の一部が茨城県に統合されていきます。県の下には郡・町村の行政区画が設置され、谷田部には筑波郡役所が置かれました。
その他、神仏分離、学制公布、戸籍、国民皆兵、地租改正など、中央集権化を進める新しい政策が次々と打ち出されました。
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